みんなちがって、みんなダメ (ワニの本)

ネット上でおすすめされており、気になったので読みました。

みんなちがって、みんなダメ

みんなちがって、みんなダメ

 

 

気になったところ

本を読んで気になった箇所をいくつか引用します。

いつだって足元に自由はある?

じつは自由にこだわるほど、人間は奴隷化します。逆に奴隷であることが必ずしも自由と矛盾しないこともある。それをはきちがえて、自由と奴隷を対立的に見てしまうのが「バカ」だともいえます。

自由というのは幻想です。そのことにまず気がつくことが大切です。(中略)自由が幻想であると気づくとは、自分が何の奴隷になっているのか、どのような考え方の奴隷になっているのかに気づくことにほかなりません。

この点は過去の自分を振り返ると、本当にそんな感じだったと思います。新卒で入った会社でも、その次の会社でも不自由さ、束縛、つまらなさを常に抱いていました。でも、振り返ってみるとそこに本当に自由がなかったかというと大きく疑問。

もっと自分を認めて欲しかった

何度も言っていますが、ダメでちっともかまわないんです。宗教の場合は、ダメというのは神の前での謙虚さに通じます。

「オレはダメだ」と言っている人は、「自分はヘビだ」と思っているミミズのようなものなんです。自分は本当はヘビなんだ、という前提そのものを疑っていない。最初から、自分をわきまえていれば、そんなことは思わないわけです。

「生きづらさ」をどうにかしたいと思って、「自分らしく」「自由」で「個性的」であるために、どこかべつのところにある「自分らしく」「個性的」で「自由」な生き方を求める。ところが、現実には多くの人がそれによって、かえっていっそう生きづらくなってしまう。ところが、本人はそのことに気づかない。それが中田氏のいう「バカ」であり「自分をヘビだと勘違いしたミミズ」である。

その裏にあった気持ちというのは上記の通りで、まさしく自分はヘビだと思っていたからです。俺はもっともっとすごいんだ、なのに何でわかってくれないんだ、気づいてくれないんだ、そういう不満がいつもありました。

そして、いつも足りないものを探していました。その代表格がお金です。これはつい最近までそうで、どうにかこうにかある程度は安定して稼げるようになった後もそうで「もっとお金が必要だ、そうでなくては周りに認められない」、そんな強迫観念に追われながら副業に必死に精を出していました。でも、下記の通り、あの逼迫した気持ちはお金の多寡が問題ではなく、自分の価値観・考え方が原因であったと今は思います。

物質的に見れば、ニートでも始皇帝よりもいい暮らしをしています。それでもバカだから、あれこれ文句ばかり言っている。どんなに便利になっても不満ばかり言っているのは、内面に問題があるせいです。つまり結局、心の問題なんです。

社会を変えても、人間の心と価値観が変わらなければ、何も変わりません。むしろ心を変えれば、どんな社会でも、それなりに幸せに生きていける。奴隷制だって、全然、構わない。奴隷であっても、主人がいい人であれば問題ないわけですから。

すでに自分は承認されている、本当の姿を認める有機

上記のようにもっと認めてくれ認めてくれと思って、そのためにお金儲けに目標を定めたのが最近の自分でした。でも、まず下記にあるように自分は承認されている、そのことについてもっと早く理解したかったと思います。

イスラームではあらゆる価値は神に帰せられ、その神の慈悲によって人間が存在していると見る。つまり、価値などなくても、人はすでに神に承認されている。

「天知る 地知る 人知る」という中国の故事があります。承認されなくたって、天も地も知っている。それだけでいんです。逆説的な言い方ですが、生きていることに意味なんかないと知ることが、真の意味で生きることの理解に通じるんです。

約20年家族とともに過ごしてきて、そして何よりこの世に生を受けたこと、なんだかそれだけで承認って十分じゃないかと今は思います。

また、本当に必要だったのはある意味で人から認められていない自分自身を受け入れることだったのだと思います。本当の姿はヘビだということではなく、今見えているミミズの姿が自分である、そのことをずっと理解できていなかったのだと思います。なんというかスタートラインにすら立てていなくて、コース外を走っているのに俺は早いんだと叫んでいるようなそんなイメージだったのかもしれません。

自分に必要だった生き方とは

あの頃の自分に必要だったのは下記のような考え方だったのだと思います。

バカな人間が生きていくための二つのパターンの話をしましたよね。一つは周りのマネをする、もう一つは、親分についていく。この二つの生き方には、承認欲求がいらないんです。完全にまかせきっているので「承認されたい」という欲求が生まれない。承認欲求とは、自分が評価されたいとか、上に行きたいとか思うときに生じます。でも、「この人についていく」と決めてしまえば、承認欲求は必要ない。

隣の人のマネを貫き通すという生き方こそが、いまや少数派のコペルニクス的な生き方なんです。

お金についても、下記の話には大いに納得させられます。

でも、お金は持つことよりも、どのように使うかのほうが重要なわけです。(中略)権力も、そうです。権力を持っているかどうかではなくて、その権力で何を行ったかによって評価されるべきなんです。権力を持っているだけでは意味がありません。

-たいやきを配れば、肥大化した自我がしぼんでいって、承認欲求も満足させられるということですか。

中田 そうです。たい焼きパーティーをやって、誰でも来てよくって、それをインスタグラムで撮って、みんなで拡散する。そのほうがずっといい。

  

これからどうすべきか

以上を踏まえて、じゃあこれからどうしようということを考えます。下記にあるようなことも意識しながら、少しでも賢く生きていきたいと思っています。

賢さとは次の三つのことを知っているかどうかです。「何をしたいか」「何ができるか」「何をすべきか」

この3つを知っているのが「賢い人間」です。賢さとは「分を知る」ことです。

 まず、あるのはお金を求めるような生き方はもうあまりいらないんじゃないかなという気はしています。それは上記にあったように私たちは既に秦の始皇帝よりも恵まれているということ、それからお金などなくても私は既に承認されているということ、そしてお金は使い方が重要だということ、これを考えると既にある程度のお金がある今からそこを必死に増やすような生き方はちょっと違うかなと思っています。もちろん、生きていく上で大切なのも確かですが、血眼になって追い求めるようなものではないと考えています。

で、何をしたいのかなと考えてみると、まず最初に挙がってくるのは皆と同じように、きちんと働きたいというのが一番に来ます。正直、これまでの仕事人生できちんと(定義が微妙ですが)働いたことがないからです。自分の責任ではあるわけですが、やっぱりそこは改善したいという気持ちがあります。何ができるのかについては、これまでの仕事を棚卸しすれば、少なからず何かが見つかるかなとは思っています。

そのうえで何をすべきかを考えると、医療について関わりたいという気持ちが強くなっています。自分自身が体調を崩して、健康でいることがいかに素晴らしく貴重なことであるかを多少なりとも実感できたと思っています。その自分の正直な思いを仕事によって誰かに伝えられたら、それは自分にとっても他人にとっても幸せなことになるのではないかと思っています。いきなり上手にはできないかもしれませんが、そんな領域でこれから30年50年携わっていきたいなとぼんやり考えています。できれば、その時に上記にあったように「この人についていきたい」、そんな風に思えるような人がいる会社だったらいいなと思います。

今の自分から再びスタート地点に戻って一歩一歩、着実に歩み始めていこうと思います。